この歳(結構な歳です)になると、何気なく受ける言葉がとても深く胸にしみることが多々あります。
普通の言葉でも…です。
例えば「ありがとう」だったり、「いいよ」だったり。
もちろん、その言葉の前の状況や会話があるからですけど。
両親があちらの世界に行き、兄弟も両親のいる世界に行き、親戚や友人や、かわいいペットも同じように旅立つと、自分もそこに行くのはそう遠くない未来かなとか普通に感じるようになり、気持ちや言葉がとても重要に思われてくるようになるのです。
私の座右の銘は
永遠に生きるかのように学べ
明日死ぬかのように生きろ
(マハトマ・ガンジー)
です。
この座右の銘への私の思いも、ここ数年で少し変化しました。
座右の銘にしたのは15年位前。
当時の私は子育ても終わり、パートからフルタイムへの仕事に復帰し始めた頃です。
子どもから見れば既に「おばさん」でしょうが、自分の中ではまだ未来に夢を抱き、頑張れば何かが掴めると信じていた頃です。
今でも「頑張れば何かが掴める」と信じていますが、「もうそこまで頑張らなくても…」などという感覚は一切ない年代と言えばいいでしょうか。
つまり、何をしても元気だった頃です。
「明日死ぬかのように生きろ」は、完全に『理想』でした。
まだ「死」がそこまで身近ではありませんでしたから。
だから、私にとってはその座右の銘の一行目「永遠に生きるかのように学べ」のほうが重要でした。
私は今PCスクールのインストラクターをしています。
インストラクターを始めたのがマハトマ・ガンジーの言葉を座右の銘として掲げ始めた頃。
PC関連のインストラクターと言っても、スクールのシステムが完全マンツーマンですから、受講される方々が質問される内容はかなり範囲が広く深く、私はその質問を想定していつももっと広くもっと深くを心がけ、いつも学び続けていました。
「永遠に生きるかのように学べ」はその時の私には道を照らす光でした。
学ぶことが辛いと思えず、楽しいとさえ思いました。
それは今でも変わっていません。
時代の変化とともに学ぶ内容は少しずつ変化しています。
そして興味も絶えず新しく湧いてきます。
でも、あれから15年も経つと、やはり歳は取るものですね。
両親が亡くなると、自分の時代の一節が終わった気がしました。
兄弟や友人が亡くなると、自分の順番はいつ? と思うようになりました。
そうなると、一日一日が重要です。
私のそばに来てくれる人々がとても大切な存在に思えてきます。
「怒り」を抱えるより「和らぎ」を放てたらと、無意識に感じています。
すると、毎日の何気ない言葉がとても暖かくありがたく感じるようになります。
これは、同年代の方は皆様同じ感情なのでしょうが・・・。
「ありがとう」「いいよ」だけでも涙が出たりするものです。
このことは「明日死ぬかのように生きろ」を頭で理解しようとしていた15年前とは全く違う感覚です。
「明日死ぬかもしれない」は当たり前のことで、「今日も新しい一日をありがとう」の感情が絶えず私の感覚の中で充満しているからです。
学び続けられることに喜びを感じ、明日死ぬかもしれない今日に感謝する毎日がありがたいと思えるのも、私の座右の銘があったからこそだと思っています。
永遠に生きるかのように学べ
明日死ぬかのように生きろ
この言葉に今、心から感謝しています。
あ、でも、明日死んだらどうしよう・・・。
押入れの中がまだグチャグチャ・・・
もう眠いし・・・・・